このモデルで考えると、「私はすべての人に好かれなければならない」という考え方がスキーマです。そして、「誰々さんから嫌われた」というのがネガティブなライフイベントです。そして、「きっともう学校では楽しくすごしていけないのだろう。これは本当に耐えられないほどひどいことだ」というのが自動思考です。
それでは、体系的な推論はどこにいってしまったのでしょうか。
実は、「誰々さんから嫌われた」というネガティブなライフイベントから「きっともう学校では楽しく過ごしていけないのだろう。これは、本当に耐えられないほどひどいことだ」という自動思考までの間に、体系的な推論の誤りが隠されているのです。
まず、「誰々さんから嫌われた」というのが事実なのでしょうか? 事実かもしれませんが、友人関係で悩みすぎだなと先生が考えている生徒さんですから、客観的には嫌われたという根拠がないのに嫌われたと自分に不利な結論を出しているのかも知れません。つまり、まず恣意的推論が行われているのかも知れないのです。
また、誰々さんは完全に嫌ったわけではなく、この生徒のいい点も認めながらここはやだなと考えているのかも知れません。それにも関わらず、この生徒は完全に嫌われたと考えている可能性もあるのです。つまり、人間関係が壊れるほどのことではないにも関わらず、完全に嫌われたとする選択的抽象化が行われているのかも知れないのです。
さらに、このような生徒の場合、何か1つ悪いことが起こると何度も繰り返し起こると考える迷信的思考が行われていることがよくあります。つまり、クラスの1人から嫌われるということは、きっと他のすべてのクラスメートからも将来嫌われるということを意味しているといった迷信的思考をしている場合が多々あるのです。そして、このクラスで好かれないということは、一生私は人から好かれない人間なんだという過度の一般化という推論を起こしがちです。
またこの生徒が、多くのクラスメートから優しくて思いやりがある人と思われ好かれているとしましょう。その場合でも、この生徒は、そのような自分の長所は無視して、誰々さんから嫌われたという失敗のみを大きく考えているとします。そうなると、自分の失敗を誇張して考え、自分の長所を矮小化して考えるという、誇張と矮小化という推論の誤りをしていることになります。
さらに、明らかなことですが、「私はすべての人に好かれなければならない」という現実を無視した「すべし思考」という推論の誤りをしています。その上、物事は完璧か悲惨かのどちらかしかないといった、絶対的で二者択一的思考も行っています。
つまり、誰々さんから嫌われたから、学校生活は80点くらいかなといった、そこそこ楽しい学校生活というような中間的な判断はないのです。すべての人から好かれている完璧な状況でなければ、「耐えられないほどひどいことだ」と悲惨な状況とする推論の誤りをしているのです。
このような生徒に対して、ベックはどのような援助過程を考えたでしょうか。まずベックは、嫌な気分になったときの、自動思考を本人が明確に認識できるようにするという手続きをとります。そのためには、嫌な気分になったときの自動思考を記録してくるように勧めます。そして、その自動思考について体系的な推論の誤りがないかいっしょに考えて、より合理的な適応しやすい自動思考を考えていきます。
さらに、不適切な自動思考から合理的で適応しやすい自動思考に変えると気分や行動がどう変わるかを経験させます。このような手続きを繰り返し行っていくうちに、生徒であるクライエントもカウンセラーも徐々に、その子のスキーマがわかるようになっていきます。そして、そのスキーマをより適応的なスキーマに変容していくのです。
このような手続きを経ることで、不適応やうつや不安などの症状が軽減されていくのです。また、このような手続きをクライエントが学習していると、将来またネガティブなライフイベントがあっても本人がその手続きを行うことができるようになります。そのため、不適応やうつや不安の症状の再発をふせぐことができるようになるのです。
以上が、認知療法の簡単な説明でした。
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