それではノートを出してください。そして、以下の8つの体系的な推論の誤りをノートにとっておいてください。

  恣意的な推論  根拠もないのに自分に不利な結論を出す。
  選択的な抽象化  ちょっとした小さな失敗をしても、完全な失敗だと考える。
  迷信的思考   何か悪いことが一度自分に起こると、何度も繰り返して起こると考える。
  過度の一般化  たった一つでも良くないことがあると、世の中すべてそうだと考える。
  誇張と矮小化 自分の失敗や短所は過大に考え、自分の成功や長所は過小評価する。
  すべし思考  「・・・でなければならない」と考える傾向。
  個人化  自分に関係ないとわかっていることでも、自分に関係づけて考える。
 絶対的で二者択一的思考  物事は完璧か悲惨かのどちらかしかないといったぐあいに極端に考える。

 

この体系的な推論の誤りの種類については、ベックの著作でも多少一貫していないところもありますが、だいたい代表的なのは以上の8種類です。なぜ一貫していないところがあるかというと、集合の考え方で説明しますと、実は前出の8種類の推論の誤りの概念にはかなり重なる部分が多いためです。また、実際に人が何らかの間違った推論をしているときには、前出の8つの推論の誤りのどれか一つだけをしているというのではなく、複数の推論の誤りをしている場合がほとんどであるということもあります。

 

それでは、一つ一つについてもう少し具体的に説明していきましょう。

 

  の「恣意的な推論」とは、根拠もないのに自分に不利な結論を出すことです。

 

あなたは、憂うつになったり不安になったりした時に、将来が真っ暗に思えて楽しいことはなにも考えられなかったことはありませんか。論理情動行動療法や認知療法では、認知が気分を決定するという仮定に基づいていますが、実際には風邪をひいたりして憂うつになったときにも、何となく将来うまくいかないだろうと思われるということはありますね。

 

このように、気分が認知を決定するという逆の関係も実はあることが研究上からも明らかになっています。ただ、論理情動行動療法や認知療法では、治療の面から考えて認知が気分を決定するという仮説をとっているだけなのです。

 

ところで、このように憂うつや不安の気分に引っ張られて行われた思考というのは、根拠がないのに将来を暗く考えるという特徴があります。これが、「恣意的な推論」です。

 

また、あなたの担任のクラスには、周りのクラスメイト全員が私のことをひどく扱うという基本的な態度で行動している子はいませんか。しかし、クラスの中には心の優しい子もたくさんいるもので、その心優しい子が仲間に入れてあげようとやさしく接してもうまくいかないことがよくあるでしょう。

 

つまり、みんなひどいことをするにちがいないという「恣意的な推論」をしている子は、その優しさを受け取ることができないのです。このように「恣意的な推論」は、抑うつや不安の気分を強めたり、集団適応を困難にしたりするのです。

 

  の「選択的な抽象化」とは、ちょっとした小さな失敗をしても、完全な失敗だと考えることです。

 

人生生きているといいことも悪いことも起こるのが事実でしょう。別に明るい子にはいいことばかりが、暗い子には悪いことばかりが起こっているわけではないでしょう。ただ、明るい子は人生の良いことを中心に見てそれを主に覚えているのに対して、暗い子は人生の悪いことを中心に見てそればかり思い出しているといったちがいでしょう。

 

このような、心のフィルターのことを専門的に「選択的な抽象化」というのです。

 

  の「迷信的思考」とは、何か悪いことが一度自分に起こると、何度も繰り返して起こると考えることです。

 

しかし、この逆の迷信的思考はえんぎかつぎとして広く認められていますね。このような迷信的な思考は、専門的には「侵入思考」といってだれの頭の中にも浮かぶ思考であることが研究で確認されています。これが、適応できないようにひどくなると強迫観念や強迫行動につながるのでしょう。

 

しかし、普通の状態の人は、ばかげた「侵入思考」が起こってもばかなことを考えているとその考えを捨ててしまえるのに、うつや不安もしくは罪悪感などネガティブな気分が非常に強いと、その「侵入思考」をばかなことを考えていると捨ててしまえなくなる時もあるようです。えんぎかつぎのような「迷信的思考」はまあほどほどであればいいとして、あまり不適応な「迷信的思考」は客観的・科学的に考え直す必要があるでしょう。

 

  の「過度の一般化」とは、 たった一つでも良くないことがあると、世の中すべてそうだと考えることです。

 

この推論の誤りも、世の中でよく見られますね。「大人はみんなきたない。」とか、「私は幸せになれないんだ。」といった言葉を聞いたことがあるでしょう。これらは、「過度の一般化」という推論の誤りを経た結論ということになるでしょう。

 

  の「誇張と矮小化」とは、自分の失敗や短所は過大に考え、自分の成功や長所は過小評価することです。

 

自分の短所を大げさに考えて、長所を無視していれば「もう私なんかだめなんだ・・・」というような非常に惨めな気持ちになりますね。逆に、自分の長所を十分に受け入れ、短所は多少直せばいいところぐらいに考えていれば、元気になれますね。

 

  の「すべし思考」とは、「・・・でなければならない」と考える傾向のことです。

 

例えば、「私はどこどこ高校に受からなければならない、そうでなければ人生破滅だ」というように考えて、プレッシャーが大きくなりすぎてうまく受験勉強が進まないという子を見たことがありませんか。このように、「すべし思考」が自分に向くと、プレッシャーを自分にかけすぎて追いつめすぎてしまう場合があります。

 

しかし、「〜でなければならない」と勝手に決めているのは自分だけで、これは現実を無視した考え方です。エリスの論理情動行動療法の中核は、この「〜でなければならない」という考えを「〜であるにこしたことはない」と考え直すという部分です。

 

先の生徒の場合、「私はどこどこ高校に受かりたいから、その高校に受かるにこしたことはない。でも、受からなかったとしても、それなりに楽しくたくましい自分の人生は切り開くことができる」と考えていれば、プレッシャーを大きくしすぎずに元気に頑張れるでしょう。

 

また、この「すべし思考」が他人に向くと、「誰々は、〜〜すべきなのにしなかった。許されることではない、我慢できない・・・」と怒りがわいてきます。これも大抵は、「誰々が、〜〜してくれるにこしたことはない。でも、そうでなくても、何とかやっていける」という考え方であれば、期待道理でなくても過剰な怒りは感じずに、残念だなという適度な感情ですむでしょう。

 

また、人は誰でも成功したり失敗したりするもので、完璧ではないというのが人間だということだという考えに基づいていれば、自分が失敗したときも「人間の証明」と考えおおらかに受け入れられますし、人が〜〜すべきとこちらが思っていることをやってくれなかったり失敗したりした時にも、「人間の証明」とおおらかに許すこともできるでしょう。このように、考えていればもっと明るくしていられるかもしれませんね。

 

  の「個人化」とは、 自分に関係ないとわかっていることでも、自分に関係づけて考えることです。

 

つまり良くないできごとを理由もなく自分のせいにしてしまうことです。これは不必要で過剰な罪悪感をもたらすでしょう。先生方も、一般的に可能で最適と思われる指導をしてもうまくいかない生徒もいるでしょう。その時に、すべて私の責任だと考えていては毎日が暗くなってしまいます。

 

先生は、最適と思われる指導で生徒にある程度影響を与えることはできますが、家庭や地域社会などの影響もあります。そのため、先生は生徒にある程度の影響を与えることはできても、完全に操作することはできませんし、完全な操作というのは望ましいことではないでしょう。

 

  の「絶対的で二者択一的思考」とは、物事は完璧か悲惨かのどちらかしかないといったぐあいに極端に考えることです。

 

よくできる生徒で、百点をとれば成功、とれなかったときは完全な失敗と考えている生徒はいませんか。また、スポーツの強い生徒で、試合で勝てば成功、負ければ完全な失敗と考えている生徒を見たことはありませんか。これらの生徒は、「絶対的で二者択一的思考」をしているため、感情の起伏が必要以上に大きくなります。

 

このような考え方には、そこそこうまくいったというような中間的な判断がないことになります。しかし、完璧にいいとか完璧に悪いなどというように白黒の二分法的な思考で世の中のすべてのことが割り切れるものではなく、中間的なグレイゾーンの多いのが現実でしょう。そのため、「絶対的で二者択一的思考」は現実にあわず、不適応を起こしやすい推論の誤りということになるのです。